2022.11.18

スタッフSの『コットン・ラボにくるまで』

おはようございます。コットン・ラボ マーケティング課のスタッフSです。

公式オンラインストアでのブログの運用が始まりましたね。
「もっとスタッフの個人的なブログもかいてみては?」との意見があり、
私スタッフSも、いちブログ担当者として書くこととなりました。これからどうぞよろしくお願いいたします。

はじめましてということで、私の初回のブログは、
私、スタッフSが、『コットン・ラボにくるまで』の話をしたいと思います。

 

愛媛県大洲市出身

山の上で育ちました。

よく霧が発生するのですが、いつも霧の上にいたので、雲海を見ていました。
こちらのブログトップで使用したのは実際に見ていた雲海の写真です。
どうしても見て頂きたくて実家の両親に探してもらったのですが、当たり前の光景だったからかあまり写真はなかったようです。
しかも一部しか見えない&データをテレビで再生している写真で、ごめんなさい。

今年白寿を迎えた祖父が、私が中学生の頃だったでしょうか。
縁側で雲海を眺めながら「今日も清々しい朝がやってきました」とつぶやいていた朝を思い出します。
大洲市の霧は昼前まで町を覆っているため、霧の下に住む母の友人からは、母に「今日は晴れとる?」と連絡がきていたそうです。
一家で独占していた雲海の景色、撮影できたらまたブログにあげたいと思います。

大洲市ではそろそろ肱川あらしも見られる時期です。
「一泊100万円で城に宿泊できる」ことが話題となり全国区のニュースでも取り上げられるようになった大洲城もあります。
TBSのTHE TIMEで取り上げられた日は、朝からよく知る風景を見られて幸せな気持ちになったものです。

 

地元で就職

「近くにいてほしい」の、両親の声を受け、地元で就職したのがグループ会社である丸三産業です。

私は接客業がしたくて、美容理容専門学校や香川県の琴平にあるお宿などを進学先や就職先として探していました。
が、「せっかく検定もとったのに?」と担任に言われ、両親の声もあり、しょうがないか…地元で働くか…と、しぶしぶ。
でも近くの企業からの募集はなかったため、先輩も就職しているいいところがあるから求人をお願いしてみよう、と、

「活きのいいのがいるんですよ」

なんて満面の笑みで副担任が電話してくれたんです。今でもその顔と言葉は忘れられません。
そんな鮮魚の売り込みみたいな電話で、「事務員は足りているからまず製造工としてなら」と採用してもらいました。

遠くからの見た目がなんだか発展途上といった感じの、五十崎工場に勤務しておりました。
配属された部門は、コットン・ラボおなじみのクリーンパフをはじめとする化粧用のコットンパフを生産するところです。

皆さんが指に挟んでお使いになるときは50×60mmの小さなコットンパフは、加工工程でカットされる前、大きな大きなトイレットペーパーのようなロール状になっています。
大きな機械で巻き取られ、カットされるコットンたちはまさに圧巻でしたよ。

 

大好きだった五十崎工場

当時の五十崎工場の工場長がなんとも特徴的な方で、男気に溢れていて皆から愛されていておもしろくて、とても尊敬していました。

新入社員研修で大洲市の青少年交流の家というところに全員集まって研修を受けていた時、工場長が
「工場勤務の人間は髪を染めるな、全員が黒髪やったら製品に茶髪が入っとったときに「うちに茶髪はおらん」といえるやろ」
と言っていたんです。うわ!すごい!徹底されてる!なんて思いましたね。
もうすでに茶髪だった同期が研修中にもかかわらず翌日には黒髪になっていたのも覚えています。

新入社員研修や工場研修がおわり、本格的に二交代ラインに入り、先輩と着替えが一緒になったとき、
(研修時は9時に入りでしたから、早番遅番の勤務の人間と一緒に着替えることはありませんでした)
毛髪混入防止のために被るフードを外した先輩が全員茶髪だったんですよ。
いや茶髪やん!!!!!
とはなりましたが、工場長の嘘つき!なんて思うこともなく、いろんな意味でブラックじゃなくてよかったななんて思っています。

老若男女勤務している部門でありながら、優しくて楽しくておもしろい人が多くて和気あいあいとしていました。

チームのリーダーもたった3つ上にもかかわらず、まとめ上手で付き合い上手で、しっかりしていて賢く現場を回しており、「こんな風になりたい!」と思わせてくれる人でした。
さらに細かい作業や単純作業も好きでしたから、仕事が本当に苦でなく、毎日楽しく働いていました。

 

辞令

そんな工場からの異動、嫌でしたね。

コットン・ラボは2011年7月に創業されました。

創業当初の朝礼で「コットン・ラボという会社が設立されました」とグループリーダーから話をされたのを覚えています。
それから少し経った翌年1月に、グループリーダーから呼び出され「明日勤務前に、人事部長から話があるそうなので応接室に」と伝えられました。

遅番勤務前の昼過ぎ、応接室のドアを開けると人事部長と若い男の人(現 上司)がいました。
「ちょっと3年間、東京に行ってみん?ご両親とも相談して、前向きに考えてみて」と人事部長。
その後先輩に遅れて現場に入り、何を話したか、何と声を掛けられたか、覚えていません。

両親は、「せっかく地元で就職したのに」と反対していましたが、最終的には「3年経ったら帰ってくるんやろ?」と東京行きを応援してくれました。

まだ工場での勤務も1年経たないまま、入社翌年2月にコットン・ラボに異動となりました。

あとから聞いた話では、誰かコットン・ラボに出向可能な人間はいないか、という打診があった際に、工場長が私を推薦していてくれた、とのことでした。
嬉しかったですね。

 

上京

松山空港で、人が一人入れそうな大きなキャリーバッグを預けました。
重量オーバーして超過料金を支払ったのですが、重いと思わなかったのです。
上京する、両親・地元から離れる、知らない土地で働く、という何とも表しがたい不安な感情でいっぱいで心ここにあらずであったのだろう…そんな優しい想像をしてくださった方もいらっしゃるでしょう。

カットされる前のコットンが、「大きな大きなトイレットペーパーのようなロール状」になっていると先ほども書きましたが、
重いものだと20kgとかあるんですよ。

単に工場で10か月間鍛え上げられた仕上がった身体だっただけですね。

車で送ってくれた両親と、サプライズで来てくれた友達に見送られ、羽田行きの飛行機に乗りました。

愛媛で、テレビの中で、見ていた東京はどこか遠くの国のことのようでした。
でも飛行機で1時間半、空を飛んだらすぐについてしまいました。

上司が空港まで迎えにきてくれて、東京モノレールにのりました。
気を遣って、「今この方向に東京タワーが見えるよ」と話しかけてくれた上司に、
「意外と小さいですね」
と会話の続かない返事をしてしまったのを今でもネタにされます。

キャリーバッグも、「重かったよね」と。

 

次は『スタッフSがコットン・ラボにきてから』

あの「3年行ってみん?」から11年、早いものですね。
ご安心ください、無理やり3年以上働いているわけではございません。

次の私のブログでは「スタッフSがコットン・ラボにきてから」をお話しします。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

今日も一日がんばれます!